2011年10月1日土曜日

教えられることのない教え

教えられることではなく、自ら関心をもって取り組むことの大切さを実践できるようになることはとても重要なことである。
ついつい教えてほしいと私たちは思って聞いたり動いたりするが、それは自分から物事を観察し、考え、試してみるという作業をとばしてしまうことになり、ひとつのことができるまでの過程をなにも知らないまま進むということになる。

私の場合、身体の使い方や可能性・魅力について、小さい頃からいわゆる指導をされてという形で父に教わることはなかった。
それは父の考えでもあるのだが、身体を使ったことに関心ができてからでも教えることは遅くないと父は考えていたからだ。
高校を卒業する頃になって初めて一緒に父と動くようになり、身体およびそれをとりまく様々な関係性に目がむくようになる。身体について興味をもってから過ぎた時間は、それまでの生きてきた時間よりもはるかに短いが、密の濃い時間が過ぎている。

そして父からは何を教わったのかいまいちよくわからない。
型や練習段階を教わったという印象はほとんどなく、共に過ごした時間ということのみ印象強く残っている。

いま私が自分で練習をしたり、講座で展開する動きはほぼすべてが自分自身で開発したものばかり。
父とは甲野は「一世代一流儀」などという話もしたりする。
それぞれが自分の関心とペースで練っていく時間はほかに代え難い充実した時間。
お互いに稽古をするときも受け手などなく、お互い勝手に技の試し合いをしているだけ。
教わったことを真似する時間は我々にはないのかもしれない。
でも、それが我々のやり方なのだと感じている。

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